下駄、草履、雪駄、オリジナル 販売、浅草はきものさんえすのホームページへようこそ |
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下駄・草履・雪駄、浅草はきものさんえすでは国産素材にこだわり、純国産の下駄・草履・雪駄をお客様一人一人のお好みに合わせてお造りしております。
欲しいけど......下駄、草履って履きにくい? 足にあった大きさの台を履いていますか? はきものさんえすでは、サイズを豊富に取り揃えています。大きさが万一きれている時は、お客様にあった大きさをお作りします。 花緒が痛くって? 当店では、通常より中綿を多めにソフトに一本一本丹念に仕立てています。長さも、お客様の足に合わせて仕立てます。その他にお客様の方からご要望が、あれば細かい打ち合わせのうえ、一緒に製品作りをしていきます。浅草 はきものさんえすでは、下駄・草履・雪駄をお客様に楽しく安心して履いていただけるよう常に考えております。
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| 掲載中の商品でも花緒は、常に新しく変わることがありますので、メール、電話等で、事前にお問い合わせいただければと思います。また実店舗でも同時販売しているため、お急ぎの方は必ず購入前にお手数でも在庫状況確認の連絡をいただければと思います。 |
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 |  |  |  | 幅広で履きやすい、観劇などにおすすめです \20,790(税込) | 着物草履 花緒 正絹 伊賀組紐 \20,790(税込) | 踵の高い 振袖 草履 \20,790(税込) | お茶席や観劇にお薦めの草履 \33,600(税込) |
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| 今年の冬、活躍間違いなし。遂に登場!昭和の復刻版 防寒草履 軽くて履きやすく仕上げてある草履です |
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当店では、すべての下駄.草履で鼻緒のお仕立てを承っております。お値段は特殊なものを除いては、掲載金額と基本同額となります。職人の仕立てる時間だけいただくようになります。通常三週間いただいておりますが、その時の混み具合等により納期がかわりますので事前に連絡させていただきます。下駄.草履の台のサイズも特注を承っておりますのでお問い合わせいただければお見積もりさせていただきます。 女性用の本革草履ですと28センチまで出来ます。男性用本革草履は32センチまで出来ます。メール等で遠慮なくお問い合わせください。 |
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| 当店では、全ての下駄、草履、雪駄にこだわりを持ち生産いたしております。特に軽装履き雪駄は、全て牛革底に人気の三日月形テクター金具と滑り止めノンスリップポイントラバーを装着しております。他にはない、当店オリジナルにこだわって作っております。本物の履き心地を是非お試しください。雪駄について、御質問等ございましたらお気軽にお問い合わせください。 |
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本雪駄および表つきの下駄、 すべて南部表のみを使用しております。本雪駄の花緒は、本印伝の場合はすべて本天裏の履き心地にこだわりをもち使用しております。他に、今では他では見ることの無い日本蓑虫や(通常他では台湾蓑虫)、本錦蛇、クロコダイル、正絹結城紬草木染など御希望に合わせてお作りしております。
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 |  |  |  | 夏のこだわり雪駄 籐表 職人が丹念に一本一本編み上げた美しい雪駄です。最近では目にすることが少ない雪駄です。 \56,700(税込) | 熟練職人の手で丹念に作られた草履です \20,790(税込) | 昔ながらの製法で作られています \27,300(税込) | \33,600(税込) |
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本印伝とは、 現在印伝は、甲府印伝がメジャーで有名なのですが、実は印伝に使用する原皮は全て、奈良での生産です。 印伝を分類すると燻し作業を行っている本印伝と燻し作業を行わない印伝に分けられ、本印伝こそがその圧倒的な耐久性を発揮します。
印伝の歴史は古く、日本では1300年前の印伝ポシェットが奈良県香芝市の三塚古墳から発見されている物が最古で、国宝として正倉院に聖武天皇・光明皇后縁の1200年クラスの物が数点保管されています。 甲府印伝・甲州印伝は江戸期中期の富士山参拝などの観光地として高級なおみやげ物として出回り、歴史的に謂れの深い、甲斐武田信玄公を祭る竹田神社の印伝のお守りも奈良、春日の皮を使用したものです。 春日の印伝原皮は古来から伝わる技法を進化させ、全ての工程を飛ばす事無く、その数々の工程の最高技術熟練者が一日に数十枚のみ作り出す伝統工芸品です。市場に出回っている印伝?商品は漆の剥離、耐久性などが疑問視されていますが、全ての工程を手抜きなしに行った物は他に類を見ない耐久性を有し常用での漆剥離の心配も御座いません 当店では、素材:製法にこだわり、雪駄、下駄、草履に使う本印伝は奈良:春日の本印伝のみを取り扱っております。 現在印伝の類似品・粗悪品が出回っています、ご注意下さい! |
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下駄について 豆知識 下駄の名称の移り変わり、今では、木でできた履き物を総称して下駄と呼んでいます。古くは、「足下」と呼んでいました。平安朝初期には、足駄と書かれるようになり、江戸時代初期までは、広く使われていました。平安時代末期には、すでに塗り下駄もあったようで、牛若丸が五条の大橋の上で黒塗りの足駄を履いて弁慶と対峙している、絵にもあるように、台も歯も真っ黒に塗ったものが僧兵を中心に広く使用されていました。多くは椙材で作られていて、甲は、楕円形で、歯は、銀杏歯(銀杏の葉のようにひろがった形)で甲も歯もひとつの木材を刳って足駄形に高く作ったものでした 駒下駄の由来 江戸時代 貞享年間に馬下駄が現れました。それまで広く使われていた足駄(差し歯の高下駄)とは、違い、台の下裏の中央を菱形にくりぬいて、四角に三角形の歯をつけたような形に造った、角型の下駄でした。 この下駄で歩行すると馬蹄のような音がするところから、馬下駄と呼ばれたそうです。最近でも料亭や旅館などで使われる、数奇屋下駄と同じものです。萬治年間から元禄時代に馬下駄を駒の爪と呼んだところから、駒下駄と呼ばれるようになりました。 下駄について、他に御質問等ございましたら遠慮なくお問い合わせください。 羽根虫現代の二本歯の原型。文化、文政から天保にかけて羽根虫という男子用の下駄がありました。 桐の柾目や板目(昔は今のように桐板を薄くすいて経木にして化粧張りすることができなかったために、目のいい板を張っていました)でできていて、現代の二本歯との違いは、歯と歯の合間の広いのが多少異なるところです。この頃から男用を、大形、女用を、相形と呼ぶようになりました。 一本歯下駄役の行者が履き始めたといわれています。山道の上り下りに便利であったといわれていますが、この風習は、古く中国にもありました。日本の一本歯下駄は、下駄の台の裏の中央にアリ(溝)をつけ、そのアリへ、厚さ一寸の朴の木の歯を、一尺以上の高さに差し入れたものでした。明治時代には理髪店の小僧さんや、料理屋の板場でよく使われていました。古来より今でも祭礼の前駆の猿田彦が履いています。 変わり下駄 文化文政、江戸の繁盛の絶頂期、遊女の下駄では、台の内に足の汚れを拭くために白縮緬のきれを入れたものや、白く太い糸を束ねて花緒にし、糸の間に珊瑚の珠を入れ、赤くちらちらと見えるようにしたり、駒下駄の上を 鼈甲にし、廻りを総金蒔絵にし、台の内にお湯を入れて寒中でも冷たくならないようにしたものもありました。 柾下駄 柾下駄とは、明治のはじめ頃まで、表つき下駄の流行した時代には、下駄の側面に柾の通ったものを指して、柾下駄と呼んでいました。それ以降表付きの下駄より安く経済的で恰好より実用本位に嗜好がうつり、じかばき下駄が、流行するようになり、台の天に柾の通ったものを柾下駄と呼ぶようになり現代に至っています。大正時代までは、男性用だけでしたがそれ以降女性も使うようになりました。 今でも舞子さんの履くこっぽりは、横に柾の多く通ったものを極上品としています。また、表つきの台を作る職人は、横に必ず柾目をとります。柾目の種類は、荒天、四五、六七、八九、十上、十二上、十四上、十六上、 十八上、二十上、などと職人は呼んでいます。当店では、柾目が十二上以下の物には、経木を貼っております。 なお常時、男性用、女性用共に台の幅にもよりますが、二十上前後の物を御用意しております。 三枚歯下駄 江戸享保年間ころ三枚歯下駄があらわれました。その当時の下駄は、歯が薄く安定感が悪かったため差歯を一枚足して安定感を持たせるためにできました。男女の間で広く使われました。寛保から延享のころには、当初の目的と違って遊女の間で主に使用されるようになりました。台は塗り台と白木台の二種類があって台には、みご表を鋲打ちしたものでした。二枚歯のものより安定感があり、履き安かったため、のちの花魁道中下駄の元になりました。この下駄の使用者の範囲は、花柳界から一般婦子女の間にまで浸透し文化、文政時代の三枚歯下駄の大流行の元祖となりました。この時代になると差歯ではなく、一つの材料を、刳って造ったものになりました。花緒も中歯と後歯の間に横緒を通して挿げていましたが、後に中歯の側面へ、鋲で打ちとめるものでした。宝暦のころには、全体を黒塗りで黒花緒をつけて男でさえ三枚歯を履いていたそうです。
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雪駄の歴史 雪駄が用いられたのは、江戸、貞享・元禄からでそれまでは、上方製の雪駄が広くもてはやされていましたが、江戸の切り廻し雪駄ができて、江戸雪駄、京木履と言われるほどになりほぼ今日の雪駄の原型となりました。 尻金の付いた物を雪駄と区別するようになりました。 尻金を最初につけたのは大津の革足袋が作った石割雪駄が最初だったとあります。 草履は踵が破れやすいのでそこに牛革を切って貼り付けた尻切が初めでそのうち、それが全体に革を貼った雪駄となり日常履きとされるようになり、耐久力の点から今のように尻金がつきました。 雪駄は千利休がそれまでの裏無しの草履だと雪の中で履くと湿ってくるのをきらい、草履を重ね、裏に皮をつけたのが始まりであると言う説(三才図会)と当時の茶席では、忌む皮を利休がつけて履く訳がない、せちだと言うのが正しく、雪駄の文字を当て字に使った(柳亭筆記)、当時、の俳諧(紅梅千句)の中にもせちだ草履と言う言葉でしばしば登場しているところから千利休の作ったものではなくせちだ草履がはじまりであると当時の江戸の文献にも記されているところから諸説紛々としていて判明しない。また竹の皮には、自然と般若の文字が侍ると言って、笠などには使ったが、足に履くものには使わなかった。古くは吉野朝時代には、草履に革をつける事を禁じていたとあることから千利休が最初ではないという説が江戸の頃は大勢だったようです。ただ元禄時代初めには、尻切れ師と雪駄師と呼ばれる人がいて盛んに作られていたとあります。江戸製の雪駄は上方製の下り雪駄に対して地雪駄と呼ばれていました。江戸時代貞享の末頃になると現代の雪駄の原型に近い切廻しと言う仕上げ方法が確立され表には、真竹皮を晒し、少しも黒味のない物で編み、地雪駄や下り雪駄より外見がよく、丈夫にできていたので江戸中を席巻する流行品となったと西鶴の(五人女)や(好色二代男)の一説にも記されています。 このように雪駄は尻切れの特徴と竹皮の長所を併用してできたものでした。 この頃からすでにチャラチャラとなる雪駄の音が世人に好まれていたそうです。雪駄の皮の色も、真竹のさらし皮に少しの黒味のないものになったのも、この時代からです。 雪駄のたの字ですが、踏むという字と履き物を意味する駄の字がこの頃の文献の中でも使われています。あえて、駄の字を使わせていただきました。
毛雪駄(踏)江戸時代貞享、元禄時代から盛んにもちいられた雪駄に江戸風の物と上方風の物と、二種類あってどちらも竹皮製の表に革を張ったものでした。この他に裏は同じように革をつけ、表には毛のついた獣皮を用い、花緒も毛皮そのままを使って作った「毛皮の雪駄」というものがありました。 新町の雪駄師が享保の頃から売り出したと書かれていたり、古くは謙信より信長へ贈る書に「毛皮の草履はきて」という一文があります。雪駄の流行から竹皮草履の表に毛皮をつけたもので毛雪駄とよばれていました。高級な人の履き物ではなく、最初は大人も履いていたようですが、もっぱら子供用として使われていました。 乗物雪駄 江戸寛文ころからあったといわれています。緞子の裂表に裏に皮をつけた上物で大名の奥方の履物として使われていた特殊な雪駄がありました。当時としては、贅沢な雪駄で特権階級の婦人が使っていました 贅を尽くした雪駄 江戸、文化文政のころ人々は、雪駄に奢りの数々をつくしていました。雪駄の表を藤組にし、廻りを赤銅で縁をとり裏面には、真鍮で牡丹、龍などの象嵌を入れ、舟に乗るとき雪駄を仰向けに脱いでおき、象嵌の美しさを競ったそうです。あまりにも贅沢が過ぎたので時の老中水野忠邦が町奉行遠山左衛門尉に命じて贅沢な雪駄を大衆が履くことを禁止しました。 江戸の雪駄屋 江戸時代の草履の中で一番隆盛を極め伝統的に用いられたのは、雪駄でした。江戸末期に有名だった、江戸照降町の越後屋や宮田と言う名店でも「下り雪駄や」の看板をかけていました。この原因は、江戸時代の履物の大半は、上方が生産地であったのと流行の雪駄も下り雪駄が最初であった関係から消費地であった江戸の履物小売店は、店頭に「下り雪駄や」の看板を掲げて顧客を呼ぶ目印にしていました。 つづきは、また・・・・・・
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当店では、こだわりを持ち、ほとんどの下駄で接ぎ歯をしておりません |
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草履について 豆知識 草履と言う呼び名は、平安朝以来の語で古くは、濁らずに「さうり」と呼んでいたとあります。平安朝の初めには、「浄履」と言う僧侶の履き物があり、それと混同して「さうり」を「じゃうり」と室町時代のころまで呼んでいたとあります。「じゃうり」から今のように「さうり」をぞうり(草履)と呼ばせるようになったのは、室町時代からと言われています。じゃうり(浄履)とさうり(草履)を同一のものとして誤解したところから始まったと言われています。 今、一般に広く売られている現代の皮草履の始まりは昭和4,5年頃全盛を極めた裂地草履が始まりです。裂地草履とはそれまでの草履とは違い、中芯を使ったものでした。中芯一枚ごとに草履の表生地と同じものを巻き積み重ねフェルト底を縫いつけた草履でした。中芯の良いものはキルク芯を使い、安価なものは、紙製の張子芯を使いました。 昭和7,8年頃には、はっきりと冬草履と夏草履が区別されるほど種類も増えました。昭和10年頃から現代の草履のような皮でできたものが現れました。薄いブルーや淡いクリーム色などすっきりとした色合いが流行でした。草履の形は、小判型や銀柳形、ウズラ形で角の取れた丸みのある草履でした。 草履について御質問とうございましたらお気軽にお問い合わせください。 |
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ぽっくりの語源 駒下駄の女もので下裏の刳り形を楕円形にしたものがぽっくりのもとです。 こっぽり下駄 文化、文政の頃世に現れました。一般子女に使用されました。駒下駄の進化したものと言われています。当時は大体は、漆塗りで表付きようでした。蒔絵をしたものもありました。のちに現代まで形を変えずにきた下駄です。 こっぽりは、おもに京阪方面の呼び名でした。こっぽり下駄の呼び名は全国でそれぞれで、尾張では、こっぽ。 美濃では、こっぷ。肥前では、こっぷり。鳥取では、こっぽん。越後では、ぽんぽん。下総では、ばっか。青森では、 がっぱ。島根では、かっぽ。近江では、こぼぼ。京都では、こぼこぼ。と呼び名は色々です。 |
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下駄の大きさ、塗り色等特注品承っております。お気軽にお問い合わせください |
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江戸時代吉原の遊女、吾妻が履いたのが始まりと言われる下駄です |
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日和下駄(関西は、利休下駄)に南部表をつけてあります。これを吾妻下駄と言います。この名は、江戸時代、寛永年間に吉原の遊女、吾妻が履いたことから、吾妻下駄と呼ぶようになったと言われています。吾妻下駄がもっぱら履かれるようになったのは、文化、文政の頃からで江戸末期には、流行品として広く一般にも履かれるようになりました。材質は甲は、桐で赤樫の歯を挿し、南部表をつけたものが、吾妻下駄です。南部表の無いものを日和下駄と言います。 |
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花緒(正式には、鼻緒)について 歴史 鎌倉時代には、あったと言われています。当時は鼻緒と言わず「緒」と読んでいました。今のように指ではさむ形でなく突っかけサンダルのようになっていました。室町時代になると親指と人差し指ではさむ形が現れました。鼻緒という名称は、指ではさむ前ツボ部分を指して呼んでいました。足の甲にあたる部分は、横緒です。今でも鼻緒を緒と呼ぶ地域があります。また鼻輪と呼ぶ時代もありました。 元禄時代以前の花緒 藁緒ー藁をなって縄にして男女ともに広く使われていました。 藺縄ー藺(イと読みます。イグサ科の多年草)をなって縄にして使っていました。 棕櫚緒ー昭和初期まで伊豆八丈島、新潟の柏崎、鹿児島などでは、シュロの毛をなって鼻緒にする風習がありました。書院下駄の鼻緒としてよく用いられてました。暖かい地方で古来より使われていました。江戸中期から明治初期まで鼻緒の芯縄として使われていました。 藤蔓ー昭和初期ころまで書院下駄の鼻緒としても使われていました。漂白したものを芯縄としても使っていました 毛髪ー古来より腐らないといって使われていました。鹿児島地方では、下駄に挿げて石風呂に入る風習がありました。 竹皮縄ー(ばら緒)竹の皮をなって縄にして鼻緒としていました。江戸時代には、バラ緒の雪駄と言われたくらい麻緒の芯に竹皮を巻きつけてよく使われていたときもありましたが、主に数奇屋下駄や勝手履きの鼻緒に使われていました。 組糸ー糸を組んで鼻緒に使用した時期もありました。 元禄時代に入って雪駄の流行にともなって裂地鼻緒が全盛になりました。形は、すり緒、ほそ緒、つぶねじ、よしはら、二つねじ、丹前、三つねじ、生かけ、くりかけ、寸、玉子ねじ、などの形の鼻緒がありました。 塗革ー男子用の鼻緒として上方から江戸へ下ってきました。用いる人は少なかったようです。魚屋は、路面が湿っているので、多く下り鼻緒を使っていたとあります。僧侶や医者の間には、このころから白革の鼻緒が主に用いられました。江戸の侠客や若者の間では、切り回し雪駄に塗り革の鼻緒が好まれたそうです。塗り革の鼻緒とは、足袋のつく半面は、白革で、表になる部分は、漆で黒や朱に塗ったものでした。正徳のころになると、一般にも広く使われるようになりました。 つづきは、また・・・・・・ |
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